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2014年4月28日月曜日

Sen und Ohngesicht 


ゴールデンウィーク前で何となくうきうきしている、mochi です。


今回の記事は、「千と千尋の神隠し」 "Miyazaki's Spirited Away"(英語版) 、そして Chihiros Reise ins Zauberland (ドイツ語版)を用いて、千 (千尋) とカオナシ (Ohngesicht)についてまとめてみました。


千と千尋の神隠し(ドイツ語版) Chihiros Reise ins Zauberland
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というのも、この作品の中で、個人的に顔なしというキャラクターが最も好きだからかもしれません。

千と千尋の神隠し(Wikipedia 参照) 


カオナシが劇中で他のキャラクターとコミュニケーションを取るシーンは非常に少ないです。おそらく以下に列挙したものが全てでしょう。(★の場面は、後ほど翻訳を比べてみてみます。)


・雨の中顔なしが油屋の庭にいると、千が窓をあけてくれる
・千が新しいお湯の札が欲しくて困っていると、顔なしが渡してくれる
・もっと欲しいだろうと思って札を持っていくが、千に拒否される。
・夜に青蛙が金を欲しがるのであげる。その後、青蛙を食べる。
・油屋の人たちに金を出してあげる。
・千に金を出すが、またもや拒否される。
・男と女を1人ずつ丸呑みしてしまう。
・座敷で飲み食いする。湯婆に「千をくれ!」と言い続ける。
★千に迫るが、またもや拒否される。
★千が苦団子を食べさせて、3人とも吐き出す
・千と一緒に銭婆のところへいく。
・銭婆に編み物の作り方を教えてもらう。
・銭婆のもとでお手伝いをすることになる。


多いように見えますが、作中であれだけインパクトを放っている割には、他者とのコミュニケーションが少ない気がしないでもありません。


上を見渡すと、彼にとってのほとんどのコミュニケーション原理が「欲望を満たす/満たされる」であることに気づきます。例えば、金を出してあげる、お湯の札を欲しい、というように、彼のコミュニケーションは常に相手の欲望によって成り立ちます。
したがって、彼がコミュニケーションを取れない相手は、欲望を出さない人物、つまり千と銭婆だけです。ここまでは大学の講義で聞いた話の受け入りですが....


こう言ってしまうと、カオナシはコミュニケーションを取れない存在、とか、どうしても彼の「異質性」が前景化してしまいますが、結構こういう人は周りにもいるような気がします。相手の顔色を伺ったり、お金で解決したり(笑)

そんな顔なしが水につかった線路をとぼとぼ歩いて、電車が来るときの波に押されて倒れてしまうシーンがあるのですが、顔なしが一気にかわいそうに見えて印象が変わります。もしかしたらこの作品の中で一番好きなシーンかもしれません。

そんなこんなで、カオナシというキャラクターは個人的に気に入っています。


以下では、文化翻訳の観点から、日本語原作の「千と千尋」が、英語やドイツ語ではどのように翻訳されたかを概観したいと思います。特に顔なしと千のコミュニケーションに焦点を当てています。


■ 千と顔なしの対峙シーン(★)

先ほどのシーンをほんの一部、ご紹介します。まずは、このシーンの日本語版から。

カ:これ食うか?うまいぞ。金を出そうか?千の他には出してやらないことにしたんだ。こっちへおいで。千は何が欲しいんだ。いってごらん。
千:あなたはどこから来たの?私すぐ行かなきゃならないところがあるの。あなたは来たところへ帰ったほうが良いよ。私が欲しいものはあなたには絶対出せない。おうちはどこなの。お父さんやお母さんいるんでしょ。
カ:いやだ、いやだ。さみしい、さみしい。
千:おうちが分からないの。
カ:千欲しい。千欲しい。


では、英語版。

カ:Try this. It’s delicious. Want some gold? I ‘m not giving it to anybody else. Of course Sen. What would you like? Just make it.
千:I would like to leave sir. I’ve some place I need to go to right away, please.You should go back to where you come from. Yubaba doesn’t want you in this Bathhouse any longer. Where is your home? Don’t you have any friends or family?
カ:No. No. I’m lonely. I’m lonely.
千:What is it that you want?
カ:I want Sen. I want Sen. 


最後に、ドイツ語版。

カ:Probier mal! Lecker! Willst du Gold? Außer dir kriegt keiner mehr was.
Nur nicht so schüchtern. Was willst du haben? Sag`s mir.
千:Wo kommen Sie her? Es gibt einen Ort, wo ich unbedingt hin muss. Sis sollten besser nach Hause gehen. Das, was ich mir über alles wünsche, können Sie mir sowieso nicht geben. Wo ist denn Ihre Familie? Haben Sie keine Mama und keine Papa?
カ:Nein! Nein! Ich bin allein. Gany allein.
千:Sie müssen doch irgendjemanden haben.
カ:Ich will Sen! Ich will Sen! Ich will Sen!


これらを見比べると、いくつか面白い点が見えてきます。

① 「私が欲しいものはあなたには絶対出せない」という日本語は、英語版では訳されていないがドイツ語版では訳出されている。。

ドイツ語は Das, was ich mir über alles wünsche, können Sie mir sowieso nicht geben. (That, which I want at all, you cannot give me in anyhow.) という訳で、上の日本語と非常に似ているように感じました。それに対して英語では、この意味に値する表現は出さずに、代わりに Yubaba doesn’t want you in this Bathhouse any longer. (湯婆はあなたにここにいて欲しくないの)という表現を付加しています。
英語版は作品全体を通して、付加が多かったように思えます。沈黙を消すためか、原作にない台詞も多く入れられていますので、興味のある方はぜひご覧ください。


② 「おうちが分からないの?」は、英語版もドイツ語版も別の言い方をしている。

英語版は、 "What is it that you want?"(あなたが欲しいものは何なの。) という表現で代えており、ドイツ語版は、 "Sie  müssen doch irgendjemanden haben."( でもあなたにも誰かいるはずよ。) とされています。両方とも「あなたはどこから来たの」に値する台詞は、前半に千が言っているので、重複を避けて変えたのではないかと自分は考えました。(本当のところは分かりませんが、このように翻訳者の意図を考えてみるのも面白いですね^^)



③ 日本語は「~したほうがいいよ」と少し親しい口調を用いている(ように感じた)が、英語版は "... please, sir" などかなり丁寧な言葉遣いをしている。ドイツ語版も相手を "Sie" という遠称を用いている。

最後は、千とカオナシの人間関係についてです。

カオナシと千は、最初は客-油屋のスタッフという関係ですが、次第に狙う人-狙われる人、助けられる人-助ける人というように、人間関係が変わっていくので、それに応じて彼女らの使う言語も変わっていきます。この場面では、客-スタッフという関係を持ちつつ。狙う人-狙われる人、という緊張関係もあるため、訳版では丁寧な言葉づかいが用いられています。

しかし、原作では千は凛とした態度で、相手を諭しているような印象を受けました。この違いは、翻訳者の意図なのでしょうか。あるいは意図せずに出てしまったのでしょうか。

ともかく、並べてみると面白いので、興味のある方は、ぜひDVDをご覧ください。


■ du と Sie の移り変わり


③との関連で、最後に1つ面白いと思った話を述べておきます。

ドイツ語では、2人称の表現 (英語で言う you ) に du (親称) と Sie (敬称) の二通りがあります。


ドイツ語文法(ウィキペディア)「親称・敬称」参照。


たとえば、千はハクと初めて出会ったときからずっと、du (親称) を用います。(Ich kann dich berühen.: あなたに触れるわ、など。)これは、両者とも年が近く、15歳未満であるために、最初から du を用いるのが自然なためでしょう。(そう思うと、日本語にはこのような使い分けがはっきりとは現れないのに、ドイツ語翻訳は「親称・敬称」の区別もしなければならないとは, 翻訳家さんも大変ですね...。)


それに対して、千が大人と話すときは、たいてい Sie を用いて話しています。子どもから大人は基本的には Sie を使うそうです。


さて、今回のテーマである、Sen と Ohngesicht はどうだったのでしょうか。実は、最初千はカオナシのことを Sie と呼んでいたのですが、ある瞬間から du になります。



それでは、千がカオナシに対して発した言葉の中で、二人称主語のものを全て取り上げてみました。
1つずつみていきましょう。(日本語は拙訳。)

(1)千が戸を開けると、雨に打たれて濡れた顔なしが立っている。 
あの、ずぶ濡れじゃないですか?
Verzeihung, aber werden Sie nicht ganz nass?


(2)川の神様をお迎えした次の日に会う。 
本当にありがとうございました。助けてくれて。
Vielen Dank für Ihre Hilfe im Bad!

※ ちなみに、 Ihre は Sie の活用形です。(所有格)

(3) (2) の直後 
失礼します。
Entschuldigen Sie mich!

★シーン(全て Sie でしたね。上を参照。)

(4) 銭婆のところへ電車でいく。振り返ると顔なしが立っている。 
え?ああ。一緒に行きたいの?
Wie? Ach so! Möchtest du auch mitfahren?

(5) 電車に入って座ると、顔なしがどうしたらよいか分からず立っている。 
座って。でもおとなしくしててね。
Setz dich, Aber benimm dich anständig, ja?


ということで、千がカオナシに対して Sie から du を使うようになるのは、カオナシが油屋から出て、全て吐き出した後におとなしくなって一緒に電車に乗ろうとするときだったわけです。


日本語だったらこういう SIe と du の関係は、敬語とかに現れるのでしょうか。まだドイツ語はアマチュアなので分かりませんが、日本語版の作品を解釈してドイツ語独特の言語体系で表現するというのは、さぞ大変なのだろうと垣間見ることができました。


一応翻訳学の勉強、というつもりで千と千尋を何回も巻き戻してみましたが、やっぱり良い映画ですね~。楽しい日曜日を過ごすことが出来ました。笑


さて、課題をやらねば。(泣)

2014年4月21日月曜日

言語教育における「他者」

学部と院は同じ建物・敷地にあるかもしれませんが、まったく異なった世界であるとやっと気づいた mochi です。

以下は、先週に行った読書会で発表した「他者」に関する資料です。読みづらい文章で大変恐縮ですが、よろしければご覧ください。


1. はじめに:自分の関心は「他者」である。

 小学校の頃から学校の先生になるのが夢だった。人に説明してわかってもらった時が嬉しかったからか、黒板にすらすら字を書く先生に憧れていたからか、あるいは楽しい授業に参加するのが好きでそんな授業をしてみたかったからなのか、決め手となった理由は覚えていない。中学の英語の先生の説明がとても上手だった。彼のような先生になりたいと思って、文法や長文読解の勉強に力を注いだ。

 いざ大学の教育学部に入ったとき、求められる教師像と自分の教師像のずれを感じた。今日では「学ばせる教師」 (teacher as a facilitator) が求められており、英語教育界にも「どう教えるか」 (英語教育方法学) のみならず、「どう学ぶか」 (第二言語習得論) という分野が脚光を浴びていた。私の理想では学習者要因は除かれた授業設計を極めることだったために面食らったことを覚えている。

 教師像のずれを感じたとき学習者の「異質」性をはっきり感じた。ボランティアや塾のバイトをしていると、自分が当たり前のようにできた be 動詞や一般動詞の区別がいつまでたってもできない子に会うこともある。自分にとって当たり前であることが当たり前でない相手にどう教えればよいのか。しかも「教え込み」だけでなく「学ばせる」ことを主眼にして。ここから、自分の「他者」に対する関心は始まったと思う。また、非常に主観的だが、今日は「他者」を直面することが減っていて他者性を意識する機会がないことも問題意識を持っている。

 最後にもう1つ。本論では西洋哲学のウィトゲンシュタインの「他者」観を援用するが、その理由は自分がウィトゲンシュタイン以外の他者論に疎いからである。ウィトゲンシュタインは学部3年の頃に『哲学探究』の読書会に参加し、彼の言語教育を用いた思想の展開が圧巻だったのを学部生ながらに感じた。つまりウィトゲンシュタイン論を使う必然性はないが、その意義はあると思っている。


2. (言語) 教育における「他者」は、規則を共有しない相手である。

 まずは「他者」とはなにかをぜひ考えていただきたい。

 以下では、言語哲学から柄谷氏のウィトゲンシュタイン論を援用して、「他者」の定義および「他者」の理解可能性について検討したい。また、導入として、演劇論の平田オリザ氏の論考を一部取り入れた。

2.1. 平田の論考―会話と対話

 まずは、上の用語の区別から導入したい。平田 (1998) は、日本語では「会話」と「対話」という言葉が曖昧に使用されていると指摘した上で、以下のように両者を区別した。

「対話」 (dialogue) とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のことである。他人といっても、必ずしも初対面である必要はない。お互いに相手のことをよく知らない、未知の人物という程度の意味である。
一方、「会話」 (conversation) とは、すでに知り合っている者同士の楽しいお喋りのことである。家族、職場、学校での、いわゆる「日常会話」がこれにあたる。
なぜ、近代演劇において、対話がもっとも重要な要素となるのだろうか。
ここまで読んできた読者には、すでに答えはお判りだろう。場所を決定する際に説明した通り、日常会話のお喋りには、他者 (観客) にとって有益な情報はほとんど含まれていない。家族内の会話だけでは、お父さんの職業さえ観客に伝わらない。 (平田, 1998, pp.121-122)

たとえば演劇の場として家の中を設定しても、登場人物が家族のみかお客さんがいるかによって、話される内容は大きく変わる。もしも家族のみであれば、お互いが知り合っている者同士という関係の「会話」が展開されるため、「お父さん、今日どうだった」「今日は1000だよ」「うわー、大変だね」でも成り立つ。しかしこれを読んでいる私たちには全く意味がわからない。それに対して、その家にお客さんが来ていたらどうだろうか。「お仕事は何をされていますか」「銀行で働いていまして、今日は1000人もお客さんがいらっしゃって、本当に大変だったんです」という「対話」になり、私たちにもわかり易くなる。


2.2. 柄谷 の論考-他者とはなにか

2.2.1. 言語ゲームを共有しない相手としての他者

 柄谷 (1992) は、対話を「言語ゲームを共有しない者との間にのみ起きる」と説明した。言語ゲームとは、ウィトゲンシュタインが言語使用について述べるために用いた言葉で、後期ウィトゲンシュタインの中核をなす概念ともいえる。

7. 第2節の言語を実際に使用する場合、一方が語を叫び、もう一方がそれに従って行動を起こす。だが、その言語の教育においては、次のような過程も見出せるだろう。つまり、教える人が石を指したら、教わる人が対象の名を呼ぶ、すなわち、語を話す、という過程だ。いや、さらに単純な練習もある。教師が発した単語を生徒が復唱する、というものだ。 ―― どちらの例も言語使用に似た過程だ。またこう考えることもできる。第2節の言語使用の全過程は、子供たちが彼らの母語を習得するための手段とするゲームの一つである、と。このようなゲームを、私は「言語ゲーム (Sprachspiel) 」と名付けよう。そして時に、原初的な言語についても、言語ゲームとして語るだろう。
 すると、石の名を呼ぶ過程と、教師の後について復唱する過程を、ともに言語ゲームと呼ぶことができるだろう。わらべ歌における語の多くの使用についても考えよ。
 私はまた、言語と、言語が織り込まれる活動の全体を「言語ゲーム」と呼ぶ。
(ウィトゲンシュタイン, 1953)

ウィトゲンシュタインにとっての言語ゲームは、あくまで「言語と、言語が織り込まれる活動の全体」であり、そこには依頼、命令、質問、挨拶、翻訳、といった多くのゲームが含まれる。

 さて、先ほどの家族の例において、お客さんや観客という存在は「他人」という言葉で説明されていた。本論では「他人」と「他者」に区別を設けず、哲学論で主流な「他者」を用いてその概念を説明する。

 柄谷 (1992) は「他者」を「自分と言語ゲームを共有しない者との間のみにある」と説明する。すなわち、自分が生活経験の上で行ってきた言語ゲームと異なるゲームをしてきた相手が「他者」なのである。家族はほとんど日常生活を共にしていれば、同じ言語ゲームをしている時間が長く、彼らの言語ゲームの大部分は共有されているといえるかもしれない。それに対して、お客さんの存在は、家族が共有してきた言語ゲームを知らない人物であるため、家族が普段通り話していてもお客さんにはそのゲームに参加することはできない。

(ある小学校で流行っている「ずくだんずんぶんぐんゲーム」に転校生がすぐに入ることができないのも無理は無いだろう。)

2.2.2. 命がけの跳躍

 さらに柄谷 (ibid.) は共同体を「1つの言語ゲームが閉じる領域」と定義した。先ほどの例では、家族やある小学校が1つの単位となって、それぞれが行っているゲームが共有されており、逆に共同体から飛び出せば自分のゲームは通用しないこととなる。

 では仮に同じ共同体に属さない相手と対話をしなければならない状況では何が起きるか。上の劇の例のようにミスコミュニケーションが起きることは予想されるだろう。柄谷 (ibid.) は、異なる共同体に属する相手と対話をする際には「命がけの跳躍」が必要と論じ、経済行為においてあるものの価値が決まるのが<他者>の関係で決定することと同様、ことばの意味も規則によって決まっているのではなく言語ゲームが成り立つ範囲で意味が見出されることを説明した。

 また、教えるものと教えられるものの関係について、以下のように述べている。

「教える-学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。 (柄谷, 1992, pp.8-9)

このように異なる共同体に属する「他者」になにか伝える際には、相手に「教える」立場でありつつも、相手に従属する弱い立場であることが指摘されている。この行為が命がけの跳躍であると考える。

2.3. ウィトゲンシュタインの論考-数列のパラドックス

→省略。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』183節をご参照ください。


3. 教育界における「他者」観の重要性

3.1. 諏訪 (2005) 『オレ様化する子どもたち』の議論

ブログ記事をご覧ください。

3.2. 「他者」への意識を上げるにはどうしたら良いか

 ここまでの議論を振り返ると、以下の点が指摘できる。
 他者は異なる言語ゲームをしている。
 そのような他者に対して教えるといったコミュニケーションをするには、命がけの跳躍が必要である。
しかし、現在の子どもたちはオレ様化しているため、他者を「他者」として意識することができないのではないか。
したがって、どのようにすれば子どもたちが「他者」を意識することができるのかを考えたい。この点は未だ自分の課題となっている点であるため、思いつき程度で下にまとめる。

(1) 言語教育において他者と自分を「つなぐ」存在である言語を教える。
→たとえば音読もただのぶつぶつ読み段階から、相手に聞かせる音読 (朗読) の段階も経る必要があるかもしれない。

(2) 道徳教育で「他者」の理解し難さを実感させる。
→異文化コミュニケーションは必然的に理解し難い相手を想定するため、この点で貢献できるかもしれない。

(3) コミュニケーションする場面を多く取る。
→言語活動として「形」だけ相手を必要とする場面を取るのも重要だろうが、本当に相手が必要な活動を考える必要があるのかもしれない。たとえばジャンケンで負けた人が無理やり前に出されて行うスピーチのみならず、自分が本当に相手に知って欲しいことを伝えるスピーチなど。

4. 最後に:自己批判と今後の展望

 今後も教育における「他者」については関心を広げたいと思っている。そのための自己批判と今後の展望を示す。
 批判点として、他者概念の広さと理論援用の必要性を指摘する。まず、他者概念はとても広いもので、本稿で十分に理解したとはいえない(気がする)。より分析的に他者について考察する必要性を感じている。また、ウィトゲンシュタインや柄谷の理論枠組みを用いた必然性については十分示せなかった。
 (他の点の批判は最後の質疑応答のところでお願いします。)

 最後に今後の展望を述べる。今後は、ウィトゲンシュタイン以外の他者論を学んだ上で、「他者」について複眼的に考察を進めたい。具体的には、言語使用を他者との交流ととらえたバフチン、他者論で有名なレヴィナス、現象学的な他者論のフッサールとディルタイ、などを考えている。
 言語教育に携わる皆さんの「他者」観や、言語教育が「他者」性をはぐくむ具体的方策などについて議論できればありがたいです。

以上で終わりです。
読みづらく面白くない発表であったことは重々承知の上ですが、皆様からのご意見・ご批判をよろしくお願いします。

【参考文献】

ウィトゲンシュタイン. (1953). 『哲学探究』. (今回は以下のサイトより引用しました。も
し正しいものが必要な場合は、大修館書店の同名の書籍をご参照ください。
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_pu_jp.html
柄谷行人. (1992). 『探求 I 』. 講談社学術文庫.
諏訪哲司. (2005). 『オレ様化する子どもたち』. 中公新書ラクレ.
平田オリザ. (1998). 『演劇入門』. 講談社.
丸山恭司. (2000). 「教育において<他者>とは何か―ヘーゲルとウィトゲンシュタインの
対比から―」. 『教育学研究』.第67巻, 第1号. (2000).



最後に、友人からのコメントと、それに対する自分の所感を掲載しておきます。

・他者と自我はどちらから生まれるか、という問いに対して、「他者」が先にできてその後に自我ができるという考え方もあるのではないか。

→そのとおりだと思います。たとえば、とても感性が鋭い友人がいたとして、その子と一緒にいると「自分には感性はないな」と自己評価を下すかもしれません。その評価は、「他者」の存在によって生まれたものであるため、自我より他者が先に存在するということもあるでしょう。

・私は、他者を考える前に自分を考えるべきだと思う。自分は意識的な自我と無意識的な自己に分かれていて、自我が自己を把握する形で「わたし」が形成されると思う。また、自己は単一なものではなくコンプレックスであり、場面に応じて変化しうるものだと思う。

→話す相手によって自分の話し方が変わったり、自分の意見が変わったりすることを鑑みれば、唯一の自己が多様に映るというより、複数の自己が現出すると考えるのも面白いかもしれませんね!


・ディオゲノスの「自由」論が参考になるかもしれない。

→時間ができたら読んでみます!ありがとうございます!



目下のところ、バフチンの言語論(特に「対話」)をもっと知りたいと思いました。翻訳論でもたまに出てくる名前なので、今月~来月で勉強してみようと思います。




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2014年4月16日水曜日

BBS 翻訳の振り返り : No Man Stands So Straight As When He Stoops To Help A Boy. の訳

久しぶりに記事を書きます。mochiです。


この3ヶ月間、BBSの翻訳ボランティアに参加させて頂きました。以下の書籍の第4章を英日翻訳させてもらいました。

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正直、数字や事実関係(歴史)などの部分は、自分の書き方がミスリーディングでわかりづらいと思う箇所がたくさんで、むしろご迷惑をおかけしたのではないかとも思いましたが、このボランティアのおかげで翻訳の難しさを改めて感じることができました。(これまでは研究者として人の翻訳にあれこれつっこむ立場だったわけで、翻訳者当事者の大変さを今度は本当に思い知りました...。)


さて、翻訳をしているときに一箇所面白いと思ったところがあったので、今日はその部分をお伝えいたします。

現在日本で活動しているBBS (Big Brothers and Sisters Movement) は、もともと BBBS (Big Brothers and Big Sisters) というアメリカの活動が母体になっているようです。このBBBSは、戦後1948年、当時BBA (Big Brothers Association) という名前で初めて全国組織化することになります。この年に Today Marks a Crossroads" という冊子を発行したのですが、そこに以下の英文が載せられたそうです。


No Man Stands So Straight As When He Stoops To Help A Boy.



この文は活動のスローガンとして題字に載せられました。(出処は不明だそうです。)

今回翻訳をしていて最も難しいと思ったのはこの1文でした。その理由は以下の通りです。

(1) 直訳調ではスローガンであることが伝わらない。
(2) 英語ではリズムがあるが、これを日本語で再現することは困難。
(3) かといって大胆すぎる意訳にしてしまうと、一箇所だけ浮き出てしまうのではないかという不安(それ以外の箇所は原文に忠実であるため。)

まずは、直訳してみましょう。(ここからは少し文法の解説になってしまいますが、ご容赦ください笑)

まず、not so... as ~ 構文は、「~ほど...でない」という意味になります。中学生が比較表現として学ぶ「as ... as ~」の否定表現です。高校文法の参考書では、上の表現が否定表現と共起するときは、1つ目のas は so に置き換えても良いと説明されていることが多いです。

次に、あまり見慣れない stoop という表現です。これは「身をかがめる」という意味があります。一応英英辞典の引用を...。

Bend one’s head or body forward and downward:
he stooped down and reached toward the coin
Linda stooped to pick up the bottles
[WITH OBJECT]: the man stoops his head
http://www.oxforddictionaries.com/us/definition/american_english/stoop

さて、これで大方の情報が集まりました。まずは直訳から。

① 身をかがめて男の子を助けるときほど、人はまっすぐに立たない。


うーん。これはやはり直訳すぎる気がしました。確かに原文には忠実ですが、日本語文のみ読んでもピンと来ません。

次に、「straight」を「まっすぐ」という物理的な説明のみならず、すこしメタファー的な「立派な」としてみます。


② 人は子どもを助けるために背を屈めるときほど立派に立っている瞬間はない。


ここまで訳すと、「子どもを助けるために背を屈める」ということは、「目線を合わせている状態」ではないか?と思います。

そこで、次の訳。「not so... as ~」は最上級表現に書き換え可能、という高校英文法の定石を使ってみます。

③ 子どもに目線を合わせようとかがむとき人は最も立派にみえる。

ここまでくると、少し原文から離れている感は否めません。ただ、このスローガンを英語圏の人が読むときと同じような印象を日本語版読者に持ってほしいと思ったので、この程度の意訳はよいだろうと思いました。


しかし、ここまで来ると頭が働かなくなり、大学の友人数人にメールを送ってみました。(皆さん本当に英語ができて感性豊かなので、いつも尊敬しています。)

その中でも、2人の友人が以下のようにメールを送ってくれました。それを紹介します。


1人目は、すでに就職して働いていますが、学生時代に翻訳理論の勉強会をやっていたこともあってメールしてみました。

彼は straight と stoop が対比関係にあるのではないかと感じたそうです。 straight はいわば<安定>状態にあって stoop がその安定を崩した<不安定>状態だとすれば、少年を助けるという行為は大人自身が<不安定>な状態になってでも行うため、美しいことだ、という解釈です。(これも面白いと思いました。)

そこで作った訳が以下の通りです。

④ 困った少年を前にして、われわれは動かないといけない(傍観していてはいけない)

翻訳理論には、「読んだ人へ行為を促す」ための翻訳という考え方もあって (Katherine Reiss の text function など) 、彼は「このスローガンがなぜあるか」を考え、BBAのメンバーがもっと子どもに寄り添おうとするためにも「~しないといけない」という形を選んだのだと思います。自分にはない発想ではっとしました。


2人目はとても感性豊かな子で、次の2つを提案してくれました。


身をかがめ
子に寄り添うその
まっすぐさ



あの子はきっと
同じ目線で笑うあなたの中に
誰より真っ直ぐに立つ大人の姿を見るのだろう


これらを見て、自分は「すごい!」と感じました。彼女の言うには、英語でリズムが意識されているなら、日本語版でも五七調でリズムを合わせれば良いとのことでした。(このような翻訳技法は実際にあるようで、『翻訳理論の探求』では「類似的形式」と説明されていました。

さらに⑥はオリジナルの訳にしてくれました。

⑥では特に「笑う」という語が含まれているのが印象的でした。彼女に確認してみると、参加しているボランティアの友人が子どもと手を取り合っている姿が "help" という語から思い浮かんだのだそうです。

まさに彼女の生活経験に根ざした訳で、個人的にはこの⑥の訳は最も面白く感じました。


これ以外にも数名の友人が協力をしてくれました。本当にありがとうございました。

これらを見渡して最終的には1つに決めましたが、どれも良いところ・欠けているところがあるなと感じました。もう一度候補訳をご覧ください。


① 身をかがめて男の子を助けるときほど、人はまっすぐに立たない。

② 人は子どもを助けるために背を屈めるときほど立派に立っている瞬間はない。

③ 子どもに目線を合わせようとかがむとき人は最も立派にみえる。

④ 困った少年を前にして、われわれは動かないといけない(傍観していてはいけない)


身をかがめ
子に寄り添うその
まっすぐさ


あの子はきっと
同じ目線で笑うあなたの中に
誰より真っ直ぐに立つ大人の姿を見るのだろう


これらを原文への忠実さ、および訳文での効果の狙いという点で無理やり一元的に並べて見ました。 (これについては異論がある方がいらっしゃるかもしれません。④~⑥の日本語としての効果の強さは他の並べ方もあるかもしれません。)




Juliane House (2008) では、翻訳者は常に double bind 状態だといいます。


double-bind relationship
In translation there is thus both an orientation backwards to the message of the source text and an orientation forwards towards how similar texts are written in the target languages. (p.7)

(注)
semantic equivalence : 意味という点でどれだけ原文と訳文で等価の関係にあるか
pragmatic equivalence : 文体、形式、効果などにおいてどれだけ訳文と原文が等価の関係にあるか

私自身もどの友人も、このダブルバインド状態にはさまれながら、どちらにより身をよせようか悩みながら言葉を選んだとも説明できます。

これでみると、どの翻訳もこの狭間に位置するしかないのかもしれません。皆さんはこれをどう思われるでしょうか。あるいは、この上にない⑦の訳が皆さんの中に生まれているかもしれません。


1つの英文を日本語に翻訳するとき、1対1関係にあると考えてしまうことがあります。現に受験生が用いる単語帳は、1対1でしか訳が載っていないこともあります。しかし、「そもそも言葉の意味は1つに決まらない」「いろんな訳し方があるはずだ」と思って訳してみれば、文体、言葉遊び、ダブル・ミーニングなど、翻訳困難なものは特にいろんな発見があるのではないでしょうか。(翻訳理論では、前者を決定論的アプローチ、後者を非決定論的アプローチと呼びます。『翻訳理論の探求』第6章をご参照ください。)


そして、これらの訳をみて「僕はこの訳がいいと思った」という話し合いをすることで、「自分はどうしてこの訳が良いと思ったのか」 (現象学でいう「直観成立の条件」) を考えさせることができるかもしれません。そのような話し合いを生徒間同士でさせることで、言葉に対してまた見方が変わるのかもしれません。


自分が研究してみたいと思うような体験と理論が丁度重なったので、勢いに任せてこのような記事を書いてみました。あとはうまいことこれらを分析的な言葉遣いで再言語化できるようにならなければいけません...。(疲)


改めて、この翻訳プロジェクトに招待していただいたBBSの小山さん、翻訳に協力していただいた皆さん、本当にありがとうございました。なにかコメントがあれば以下でお願いします (^^)

(追記)

学部の後輩が、以下の翻訳を提案してくれました。これを⑦として載せたいと思います(T君、ありがとう!)。

⑦ 実るほど頭を垂れる稲穂かな

先ほどの英文を、ある程度教養がある方に分かってもらうならこの翻訳は適しているなという印象を受けました。もちろんこの訳が原文のすべてのニュアンスを伝えられるわけではないのですが、一つの選択肢としてとても面白く感じます。

翻訳理論の探求
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